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ワークショップ&わとびら神楽
今回のこんせぷと

「ゼロ」から「形」を生み出すお面つくり体験ワークショップ

 

それは普段は作品を鑑賞する側と表現する側、互いが理解し合いより深く歩み寄るひととき。

WSでは、真っ白な紙皿と向き合うことからお面作りがスタートします。

わとびら会の私たち、常日頃表現する側が表現するたびに思うこと。それは・・

作品に込められた伝えたいことは、多次元です。複数の糸が絡み合うように、意味や意図が入り混じっています。作品は単純に一つのことを意味しているわけではない。ゆえに毎回作品を繰り返しても、感じることや気づきが変わってゆく楽しさがある。でもそれは、言葉では鑑賞される側へ簡単に説明ができないもどかしさがあります。

知識や情報で表現作品を「見る」のではなく、実際に「ゼロ」から生まれる創作のプロセスの深淵を体感して頂く。

その方法としての「形のない」ところから自由に表現をするお面作り体験

ご参加の方には、表現が、どんな流れで形になっていくのかをご自身でじっくり味わっていただく。自分の中から悲喜こもごも様々な思いや感情、意味が赤裸々に、複雑にあるがままに沸き上がりながら、一つのお面の形に整っていく。

一方表現者側は、その創作プロセスを伴奏する。

それにより、観る側、表現する側ともに、新たな気づきや見識を得あえるのではないか?

そんな期待を込めた、ささやかなお面作りWSです。

アートセラピーとしてのお面つくり&お神楽づくり体験

 

意識をちょっとずらしてみると、新しいものが入ってくる。

「ゼロ」からものを作り出す作業。そこには、既存の枠にはめ込む習い事的なものでは起きえないハプニングがたくさん、待ち構えてくれています。

あるがまま、感じるままに表すこと。そこには自分でもわからない「謎」が見えてきたりします。例えばお面作りにて・・・

「なんでこんな色塗ったんだろ~」「鼻の部分はどうしても赤い薔薇の蕾にしたいの。でもなんでだろ?」など、「こんなお面が出来ちゃった」自分と向き合い、いつも生活に追われて脇に置きがちな「もやもやしたもの」を感じ直してみる。言葉以前の表現に表れているものを見つめる。鏡で自分の顔を見つめるように・・・。

日常抱えた悩みの「答えは自分の中にある」のかもしれません。その答えは、自分だから「はっ」と気づけるのかもしれません。そしてその答えを胸に、新たなステップへ踏み込んでいける。

さらに、その気づきや体験を他者とWSでシェアし、自分が他者にあるがまま受け容れられることで一層自己認知し、他者理解も深まっていく

もしかしたら、その先に、本当の意味での他者とのもっと踏み込んだ関係性:困ったときの助け合いや癒し癒される関係性も生まれるのかもしれません。

そして・・・

鑑賞者と表現者、自分と他者との関係性をより一歩踏み込んでいく実践の場として、ゼロからの「お神楽づくり体験」をしてゆきます。

作品が完成するまでのプロセス、展開を共に体験してみる。「神様が笑って楽しんでくれる:お神楽」を皆でどうやって作りましょうか?

しかしここでも自然の中ゆえのハプニングが! 計画通り物事が進まないかもしれない。でもその瞬間は、頭も身も心もこわばらせるのではなく、ここはひとまずチカラを抜いて、「どうしようか」「ああしようか」「これもいいな」「そりゃウケる」と皆であははと笑ってゆるんでしまう。すると視界が広がり思わぬ閃きや奇跡が引き寄せられてくる。「ア!古い諺にもあったね」とか太古の先祖の智慧の輪にも、アクセスできる瞬間でもあったりします。発信するから救われる。自力あっての他力かな、という体験が重なってゆきます。

創作はハプニングの連続。そこを切り抜けるたびに、人は一皮も二皮も脱皮して行ける。そして互いに智慧を出し合うことで仲間と強く結び合え、日常をより力強く生きる勇気や糧も得られる。これは、わとびら会の私たちが創作時に経験していることでもあります。

免疫力を上げると、ナチュラルキラー細胞が増大するそうですが、コロナで心身共に疲れている今、サプリもいいけど、五感を開放して、他者と共振して、いつもの自分の枠やパターンからはみ出しあって、​自分の中にもあふれてる自然のチカラにアクセスする。そこには偶然な顔した必然なミラクルが、キラキラ輝いて待っている・・。

そう、自然もあなたを待っている。「『春よ来い』って私を呼んで!」と待っている。

あなたが私、私があなたになる瞬間。

意識をちょっとずらしてみると、新しいものが入ってくる。

破壊と創造のアートセラピー。

お面づくりとお神楽づくりでその体験を一緒に楽しみませんか?

天地創造、自分創造、関係性の創造。

太古、私たちのご先祖が大切にしてきた「自然とつながる」お祭り、セレモニー。

まさに主人公の華ちゃんがいるかもしれない!

そんなきらきらした飯能の自然と山里の境目にて。

山のかみさまに手を合わせお参りするだけではなくて、自ら踊りを捧げて積極的に自然と関わってみる。するとさっきよりも風がそよいだり、鳥の声が聞こえたり、きらきらした木漏れ日がより一層まぶしく感じたりする。そして自分の中から元気なエネルギー、底ヂカラが沸き上がる。

その昔、日本各地で疫病退散のために、冷静に考えれば、いやそれバカでかいだろ!とつっこみたくなるような大蛇や巨大サルタヒコさんなどを藁でみんなでせっせと編んで飾って祈った行為。

そこには真剣だけれども、なんともいえぬユーモラスさを感じます。

やがて時がたち、疫病や苦難の記憶が忘却されて、賑やかな「祭り」「文化財」として脈々と残ったり、風化したり、消滅してきた。でも今、時代がぐるぐるりと巡って「お祭り騒ぐ」ユーモラスDNAは今私たちにも発動しているんじゃないか?「サガ」として再び蘇って、私たちの血液をぐるぐると巡ってるんじゃないか?と感じます。

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